酔っぱらいの続きです。ちょっと長くなったので、二つにわけました。続きは近々。
ドアをノックする音に目が覚めた。
「工藤、起きたか?」
扉を開けて、平次が顔をのぞかせる。
のそりと体を起こすと、頭に鈍い痛みが続いた。
「うー…」
ぐらぐらとした気持ち悪さを抑え上半身を起こすと、平次が近づき声をかける。
「水飲むか?」
「いらねえ。」
両手で頭を抱え込みながら、それでものろのろとベッドを出るべく掛け布団から足を出す。
「何か欲しいもんは?」
頭上から聞こえる声に、俯いたまま答えた。
「……今は熱いコーヒーが一番怖い。」
「そーかそーか。…もっと怖いもんが待っとるで。」
「へ?」
「はよ着替えて、降りといで。―――まあ、執行猶予はそう長ないみたいやけど?」
意味深にウインクして、平次は扉を閉めた。
新一は首を傾げつつも、頭に残る昨夜の酒が不快で早くさっぱりとしたかったため、
思い体を引きずりながら手早く着替えをすませて階段を下りる。
とりあえず先に顔を洗い身支度を整えてリビングのドアをくぐった。
「おはよう、新一。」
フライパンを片手に振り返った蘭が、にこやかに新一へと挨拶を告げる。
エプロンこそしていないもののまるで新婚の朝のようと、
少しだけ不謹慎な想像に口元を緩めた新一の表情を平次の咳払いが正す。
「おはよう、蘭。遠山さんも、おはよう。」
「…うん、おはよう、工藤くん。」
蘭の隣でサラダを並べていた和葉にも声をかけるが、返答にはいつもの元気がない。
彼女も酒が残っているんだろうか。
いつもより眩しく感じる朝の光に目をしかめながらテーブルにつきつつ、
やや漂う違和感に嫌な予感を覚えたが重い頭は中々始動しない。
いつの間にか蘭がコーヒーを片手に新一の後ろに立っていて、ことりと小さな音をさせてカップを置いた。
すでにテーブルで給仕されている平次が、ちらと新一に視線を送る。
(…んだよ。)
じろりと睨むと肩をすくめられた。
サラダ、目玉焼き、ベーコンと、簡単な朝食が並べられていく。
和葉が席につき、そして最後に蘭も椅子に座った。
「いただきます。」
全員が手をあわせて声をそろえ、昨夜のことには何ひとつ触れないまま
今日の予定なども交えつつ和やかに朝食は終焉を迎える。
食後にもう一杯と、新一がコーヒーを口に含んだその時。
「で、いつから二人はつきあってるの?」
唐突に始められた蘭の会話に、それをそのまま噴出す。
げほげほとむせた新一に蘭はそっとタオルを差し出した。
長い付き合いは伊達じゃない。タイミングはばっちりである。
受け取ってひとしきりむせた後、新一はキっと平次を見やる。
「服部、てめえ!」
「俺と違うで?お前がばらしたんや。」
平次は、じとっと新一を見る。
「んな訳あるか!」
「本当よ?」
食いかかる新一に、蘭の鶴の一声。
さっくりと心臓を抉る一言に全身が凍る。
「…マジかよ。」
何言ったんだ俺と、固まったまま自嘲交じりに呟けば、にっこりと蘭が笑う。
「服部君を俺のだって宣言して、私たちの目の前でキスしたのよ。」
ガツん、とテーブルに顔をぶつけるようにして新一はつっぷした。
「服部君は新一が話したい事しか話せないっていうから。」
「・・・・」
その言葉に平次を見ると、ふいと視線を逸らされた。
自分よりも早く起きて、二人に詰め寄られでもしたのだろう。
それでも、自分の意思を最優先させる彼にふわり気持ちが和む。
ふと気付くと、和葉と蘭の二人にじっと見つめられていることに気付き、
なんとなく恥ずかしくなって咳払いをした。
けれど、いい機会だ。
きちんと話すことは必要だと思っていたし、新一自身逃げていたわけではない。
もう一度平次に視線を向けると、その覚悟が伝わったのか今度はにこりと微笑まれた。
無駄にいい男なんだよ、ったく。
そう心の中だけで呟くと、居住まいを正して二人に向き合う。
大きく深呼吸を一つだけして、背筋を伸ばして口を開く。
【2】へ
日曜の午後、陽射しは緩まないまま、残暑の熱気がアスファルトに陽炎を揺らす。
天気予報で告知されていたものの、予想以上の暑さに外出もキャンセルし、さりとて本を読む気分にもならない。積もる資料を横目に、ソファへと身を沈める。
ふと視線を動かせば、窓からこの猛暑の中、ありがたくも庭の水まきなどをかってでた男が立っているのが見えた。半袖の袖を肩口まで捲り上げており、そこから しゅると伸びた腕にしなやかな筋肉の筋が浮く。その手に持つホースから緑を潤す噴水に虹が瞬いた。
少しだけ涼しげな光景に、口元がふうと緩む。視線に気づいた夏男が、こちらを見てにかりと笑った。
まったく、嫌みなほど陽光の似合う男だ。
にじ、と指を指しながら唇で訴えると、さらに笑顔を深くしてホースを頭上へと掲げる。細かな粒子の水が空気に溶けて、艶やかな虹がまた浮かんだ。平次は心地よさそうにそのシャワーを浴びている。
髪から滴る雫を指で払い、一つ大仰なお辞儀をかまして窓のシアターから役者は退散。
廊下が濡れるのは嫌だからな、と誰にともなく呟くと、新一はタオルを渡そうと立ち上がった。
「んでよ、彼女が言うにはさぁ、惚れたほうが負けだっていうわけ。それが二股かけた言い訳なんて、ひどいと思わねえ?」
よよと泣き崩れるポーズをとりながら、男は手にしたアルコールをぐいっと一気に飲み干す。居酒屋の喧噪の中、数人の男達が失恋慰め会と称して飲み会を催していた。
そらひどいわ、まあとりあえず今日は飲め!そんな周囲のざわめきから浮いたように静かに酒を呷る目の前の男に、酔っぱらいとかした失恋男が絡み酒。
「服部、お前んとこはどうなん?」
「東京の彼女に尽くしまくってるって聞いたで~?」
「もうKOされてますって感じ?」
普段恋人に関してはガードの堅い平次に、ここぞとばかりに立て続けに不躾な質問をする。平次はぐびっとビールを一口飲んでから、顎に手をかけて何かを考えるように首をひねる。一呼吸置いて、「んー」と唸ると肩の力を抜いてもう一度ビールの間に口をつけながら答えた。
「勝ち負けなんて考えたことないなあ。ようは、相手をどんだけ大事にできるかどうかやろ?」
一瞬、沈黙。まるではかったようにしん、と居酒屋の空気も静まった。 質問した当人は、へ、と笑うと一喝。
「真顔で言うな。」
「そういうのきれいごとっていうんだよ。」
けど、と言い置いて、全員が大きなため息を同時についた。
「・・・お前がもてる理由がよくわかったよ。」
ぽつり一人が呟いた言葉に、平次以外の全員が頷いたのだった。
うとうとと眠っていたのは本当。ソファの上でごろりと横になって、アルコールによって誘われた睡魔に身を任せていた。
目の前のローテーブルには空になった瓶や缶が何本も転がり、つまみにしているナッツ類や菓子がだらしなく袋のまま開かれて散らばっている。
覚醒というには曖昧な意識の浮上。ふうわりとした心地よいそれに、体の覚醒は伴わず身動きはできなかった。僅かに瞼を持ち上げて、ぼんやりと滲んだ視界の先に彼がいた。
片手にビールの缶を持ち、窓ガラスにもう片方の手を置いて外を見ている。
ああ、見なければよかった。
室内の明かりによって鏡となった窓に映る表情。鋭利な刃物が秋の夜の冷たさを断つような、それ。
瞳の中にあるものは飢えに似た底知れぬ暗闇。
けれどそれは一つ瞬きをして、もう次にはいつもの子供のような悪戯じみた光を宿す。
「工藤、起きたか。」
振り返った彼は鏡の中へとすべてを隠して、違和感を感じさせぬ明るい声で笑いかけてくる。
見なければよかった。
そうすれば、彼の中にあるものに気づかずにすんだものを。
新一は肘をつきながら、ソファにゆっくりと半身を起こした。
服部、と小さな声で名前を呼ぶ。茫洋とした声音をどう受け取ったか、平次は無言のまま新一の傍らへと歩み寄る。欲を夜へと閉じこめて、かろやかな笑顔で。
工藤、と名前を呼びかえされて、無意識に彼へと腕を伸ばした。
あきらめ沈めたはずの想いが、焼かれると知りながら業火へと舞う蝶のように、飛び立つ。
閃光とともに爆風が小さな体を跳ね飛ばした。全力疾走の助走をして地を蹴り、限界までぐいと伸ばした腕の中にその体を抱え込む。さらにもう一つ大きな爆発が平次の体をコナンごと吹き飛ばした。
己の身を彼を守る殻にでもするかのように平次は背中を丸め、反射的にしがみついてきたコナンをさらに強く抱きかかえる。転がりながら受け身を取ったものの、アスファルトに腕を引き摺られて利き腕を深く抉られた。
眉を顰めるがそれだけ。痛みよりも先に、身動ぎせず腕の中でぐったりとしている彼が気にかかり声をかける。
「おい、工藤生きとるか?」
「ああ。」
軽く頭を振りながら呼びかけに応じる姿を見て、ほっと息を吐く。少し気が遠くなっていただけか。
「ほんで、証拠は?」
一瞬目をこらすような表情に爆音で耳が一時的に麻痺していると気づき、
口の形で”しょ・う・こ”と問えば、にやりといつもの笑みを見せて服の上から胸をぽんぽんと叩いた。
「きっちり持ってきたぜ。隠滅に邸宅一軒潰そうとしたって、なあ?」
「そんでこそ、工藤や。」
どちらともなく、にいっと笑う。
ふと腕の中に閉じこめたままなのに気づいて、降ろせと請われる声のままそっと地面へと彼を立たせた。
同時にわずかに眉を寄せる仕草に彼の足を見れば、白い靴下にじわり血が滲んでいる。飛び散る破片の切っ先で深く削られたらしく、出血の量がやや多い。
「大丈夫か?」
「てめーよりはな。」
見上げた視線の角度にちょうど平次の腕、滲んだ血の量ならば間違いなくコナンよりも平次の方が多い。
「こんなん、舐めとけば治るわ。」
平次は腕を持ち上げて、滴る血もものとせず傷口へべろりと舌を伸ばす。
コナンが何か物言いたげな表情とともに小さな手を伸ばしかけたが、背後から聞こえてきた幼なじみ達の呼ぶ声に平次が顔を上げるのを見て、瞬時に顔を子供の表情に戻した。
「コナンくん!」
「平次!!大丈夫か!?」
駆け寄る幼馴染み達に、それぞれが無事をアピールするべく軽く手を振って答える。
蘭が膝をついて、コナンと視線の位置を合わせた。一瞬、きまりが悪そうに横を向いたコナンが、おずおずと蘭の方へと顔を向けてぎこちなく笑う。安堵の息をついた彼女にぎゅうと抱き締められて、真っ赤になる姿を見て平次は笑った。
「よかった・・・。もう、無茶ばっかりして!」
「ごめんなさい…。僕、どうしても捜査のお手伝いがしたかったんだ。」
子供のようにしゅんとうなだれる。それはおそらく高校生の彼ならばできない素直な謝罪。
フォローしてやろうかと口を開きかけると、ぐいと腕を捕まれて振り返らされた。和葉が顔を蒼白な色で染め、血の滴る腕を掴んでいる。
「平次!怪我っ!!」
「こんなん擦り傷や。すぐ治るわ。」
「あんた、県大会一週間後やろ?どないすんのっ」
「こんくらい、ちょうどええハンデにしかならんわ。」
コナンの耳が今は聞こえなくてよかったと、 少しだけ平次は爆音に感謝した。
和葉が叫んでいる姿に、保護者として心配と感謝の気持ちを伝えにきたのだろう。いつの間にか蘭が平次の背後に立っていた。コナンはすでにその腕から降りているが、手だけは繋いだままでいる。平次の前ではさすがにその姿が照れくさいのか、コナンは足下を見たままだ。
「服部君、コナンくんを助けてくれてありがとう。」
「ああ、そんなんええて。計画通りにしただけやし。」
「え?」
「ほなら、何?あんたはこない小さな子にあんな危険な真似させたっちゅーの?」
不穏な空気を感じたか、コナンが顔を上げる。しまった、と平次が旗色の悪い状況を回避しようと言い訳を考えるが、犯人を追い詰める嘘は得意でも親しくなった人間へのとっさの嘘がつけない不器用さがこの時ばかりは恨めしい。あーうーと金魚のように口をぱくつかせていれば、後頭部をがつんと拳で殴られた。
痛みに呻く平次を尻目に、和葉が蘭へと謝罪の言葉を繰り返す。堪忍な、私がちゃんと言っておくから、そう話す和葉の勢いを蘭は片手で制しながら苦笑する表情を浮かべている。
コナンの姿の彼は、無表情な瞳で彼女たちを見ていた。その理由を知るのはおそらく自分だけ。その眼差しに何故か平次は拳を握りしめ、彼の本当の名前を呼びそうになる。
自分の視線に気づいたか、ふっと視線を流してコナンは平次を見た。
視線が合うと彼は片方の唇をつり上げて皮肉めいた笑みを浮かべる。唇の動きだけで”ツメがあめーよ。”と詰られては答えようがなく、がりがりと後頭部を掻けば急に彼はその表情をふうっと和らげた。儚ささえ感じさせるその微笑に胸の苦しさを感じて、自分でもとまどう。
無意識に胸へと手を当てた行動を、証拠の品のことと勘違いしたか、コナンは蘭と繋いでいない方の手でぽんぽんと己の胸を叩くと、その手の人差し指を伸ばしてこちらに向かってくる警察車両の赤いライトを指さした。
意図することは明確であったので、平次はこくんと頷く。その応答を確認してコナンは蘭と繋いでいる手を引きながら、彼女を呼んだ。傷の痛みを訴え、治療をせがむ。慌てて会話を切り上げ、蘭はコナンの体を抱き上げた。とたん、真っ赤になる顔を和葉に見咎められからかわれたが、もがいても力の差に勝ち目がないと踏んだか、おとなしく柔らかい腕の中に収まった。
警察へ届ける証拠品は彼の手から、おそらく”平次兄ちゃんに言われて”などと話しながら渡すのだ。彼自身が気づいたものにも関わらず、周囲の人間を守るために、あざとく子供の演技を続けていく。
途中まで蘭と一緒に走っていた和葉が足を止め、踵を返して平次のもとへと駆け寄る。おそらくは平次の傷を気遣った蘭の言葉によるものであろう。平次の傍にくると同時に、怪我をしていない腕を取られて蘭と同じ方向へ引きずるようにされて歩かされた。同時に自称”へいじのおねえさん”たる彼女の説教が始まる。それは平次を心配するが故の照れ隠しが多分に含まれていたが、その心配をまじめに受け取る気のない平次は生返事を繰り返した。
先ほどのコナンの瞳の色ばかりが、何度も何度も脳裏にちらつく。
「あんたは、もうっ!コナンくんは言うてもまだ小学生やで?あんな怪我までさせて、もうちょい考えて行動させな!」
しびれを切らしたようにがなり立てる和葉の声が、やたらと耳に障った。小学生だと言い切る彼女に、そうではないと大きな声で言い返したい気持ちが沸き上がり、平次は必死にそれを抑える。
「あんただって、そんな怪我して。もう、ほんまアホなんやからっ・・・」
「別にええよ。そんくらい。」
声にわずかに苛立ちが紛れたか、一瞬和葉の口が閉じられる。平次?と訝しむ声に己のミスを悟り、わざと彼女を怒らせる軽口でその場をしのいだ。背中についた張り手の跡はご愛敬。怒りにまかせて今度は大股で歩き出す彼女の背中が、先ほどの蘭と重なる。
「納得、いかへん・・・。」
すぐ前を行く和葉には聞こえないほどの小さな声で平次は呟く。
心配のされかたにも温度差がある。高校生へのそれと、子供へのそれ。
工藤はいつも、こんなんと戦っとるんやろか。
知らずため息が零れた。こめかみに手をあて、緩く頭を振る。
あいつは工藤や、体が小さなっても、推理もそれに基づく行動もすべてが工藤新一であるのに、小さな男の子として、まるで守られるのが当たり前の存在のように、こうして。
「納得いかへんわ・・・」
思いがけず声は大きくなり、何か言うた?と今度は聞き止めて和葉が振り返る。
なんでもあらへんとぶっきらぼうに答えながら、平次は決意も新たに再び強く拳を握りしめた。
眩しい太陽の光が海辺を歩く彼女を包んでいた。歩く都度、砂が星を砕いたように陽光に透けて煌めく。
少し先を歩く後ろ姿に思い切って名前を呼んで、振り返った彼女に海へと二人で来た理由の口火を切る。
強い陽射しは逆光になって、影になった彼女の表情は口元の笑み以外見えず、強い陽射しに負けぬよう目を細めても何も読み取ることができない。光の渦に溶けそうな彼女に不安を覚えて足を踏み出せば、彼女は掌を掲げてその前進を制した。その手がわずかに震えているのに気づけば、もう動けない。
彼女の唇がゆっくりと俺の名前を紡ぐ。母のような確かさと、少女のような脆さの混じる声。
そして一言、嬉しい、と呟く。まるで、大好き、と囁くみたいな声音で。
意外といえば意外だったが、彼女らしいと言えば彼女らしい言葉に新一は本音を言えば安堵した。けれど続けられた言葉ですぐに知る。それが自分の甘えであったことを。
最初に話してくれて、嬉しい。・・・だから。
少しだけ、ひとりにしてね。
嬉しいと笑ったままの顔で幼馴染みは、ひらり マキシ丈のワンピースの裾を翻す。波打ち際へと歩み寄り、サンダルを履いたままの足を波間にさらして、スカートが濡れるのも厭わず水平線を眺めていた。きっとその口元は、まだ微笑んでいるだろう。
失う物の大きさにあらためて気付く。重い息とともに飲み込まれたその言葉が、胃の腑へと沈んでいき、足は鉛のように砂に埋もれた。逃げ出したい衝動に駆られるも、かろうじて踏みとどまる。
そして これからも彼女自身を失わぬ為に、新一は彼女が振り返るのをそのまま待ち続けた。
わかってはいた。一番可能性が高いのは拒絶であろうことは。
けれど実際に目の前で伸ばした腕から逃れようと後ずさる姿を見れば、その衝撃は予想以上に己の胸を裂いた。やはり心の中に留めておくべきだったのだ。この想いは。しかし、それはあまりに強く、すでに己の堰を溢れかけており、決壊する前に告げることを決めたのだった。無防備な彼を、傷つけるわけにはいかないから。
「友人でいさせろよ。」
俺だってそうや。そう叫びたかったが、全部非は自分にある。どれだけ責められようと、罵詈雑言を浴びようと自分からは好きだという気持ち以外何も言うまいと誓い、こうして彼のもとへその気持ちだけを告げに来たのだから。
けれど苦しい。好きで好きで、苦しい。伸ばしても伸ばしても届かない腕は気持ちを象徴するようで、胸を掻き毟りたい衝動をシャツを掴むことで何とか耐えた。唇を噛みしめる。そうでなければ叫んでしまう。好きだと、何度もみっともなく、彼を傷つけてまで自分の気持ちを叫んでしまう。
耐えきれない嗚咽は、食いしばる歯列からうめき声として零れた。
どうして彼に惚れてしまったのか。自分で自分が許せない。傷つけたことは彼の蒼白な表情でわかった。自分の気持ちを彼に押しつけてしまう失態を呪い、狂ってでもこの心は殺してしまうべきだったと後悔の言葉ばかりが繰り返し浮かんだ。
新一は蒼白な顔でこちらを見ている。視線はあわない。いつだって正面から己の前に立っていた男は、顔だけは前を向きながらも視点は平次の指先に集中している。外敵の攻撃に備える野性の獣のように、ピンと神経を張り詰めて、腕の動向を探っているようだ。
わずかに震える脚が、またじり、と後ろへ下がるのを見た。
ふいに、平次は違和感を感じた。
あいつは、何を恐れているのか。
工藤新一という男は、何かを怖がるようなことはしない。どれほどの悪意にもどれほどの困難にも、必ず正面から立ち向かい突破する男のはずだ。恋愛沙汰は不慣れなためか、と自問し、それはないと即座に否定する。自分にとって告白が日常茶飯事であったことを思えば、同じ立場で、しかも有名人の息子である彼は己以上にその機会が多かったはずだ。
何を恐れているのか。
彼が何かを恐れる時は、そう、・・・何か自分に、非があるときだけだ。小さな姿のまま幼馴染みに隠し事をしていた時のように。
光のように脳裏に浮かんだ答えは、自分にはあまりに都合の良すぎるもので、けれど一度だけ確かめたいという欲に平次の足は地を蹴った。一気に距離を詰めたことで、驚愕する表情を目の前にする。
瞬時に掴んだ白い腕を引き寄せて、ぎゅうと抱き締めた。温かさに泣いてしまいそうな気持ちになる。触れるのはこれが最後になるかもしれない、離したくなくて縋るように両腕で彼を囲う。次の瞬間、平次は目を瞠った。
新一の腕が平次の背に廻され、平次は彼と同じような強さで新一に抱き締められている。
工藤、と名前を呼ぼうと開いた唇に、何かがやわらかく重なった。
壊れたくねえよ。
離れた唇がそう呟く声に、平次はよりきつく新一を抱き締めた。
手を伸ばされて、思わず一歩後ろへと下がった。
よろりとしたその足取りは、けれど拒絶を感じさせるには充分なものだったらしく、平次の顔がくしゃりと歪む。
行き場のない手がゆっくりと握りしめられながら降ろされていくのを、新一はじっと見つめた。
クローズアップされたそこだけが視界いっぱいになって、もう平次の表情も見えなくなる。
立ちすくんだまま、夜の街灯の下、二人。秋の風は涼しいというよりも、もう、肌寒い程。
新一はまだ平次の指先だけを見つめて、小さく息を嚥下した。
ふいに工藤、と名前を呼ぶ低い声が沈黙を破る。
ひどく傷ついていることがわかる震えた声、それでも彼は新一へと向かってもう一度足を踏み出した。
新一が簡単に逃げ出せる程度の速度でゆっくりと、また再び自分へと伸ばされる褐色の腕。
「友人でいさせろよ。」
たまらず零れた呟く声は、刃のごとく彼の心を刻む。一瞬の躊躇の後、平次の腕は彼自身の胸を掴んだ。
シャツを握り締めて、静かに咆吼する。どれほどの想いを抱えているのか、それだけでも知れる。
友人でいたいんだ。
だって。
新一は無意識に、また じりと後ずさった。
・・・・・触れてしまえば、自分がどうなるか。 わからなくて、怖い。
二人はすこぶる機嫌がよかった。
久々の逢瀬でもあったし、大学の試験の結果がよかったこともあった。そして待ち合わせた先で起こった事件の殺人を未然に防いだこともあり、二人は工藤邸に戻ってからも機嫌のいいままリビングで平次の手土産である日本酒を呷っていた。
ほろりと頬が朱に染まる。飲み過ぎたかな。新一はとろんとした目を目の前の平次へと向けた。
彼もまたかなり酔っているのか、にかにかとひたすら笑顔を絶やさず、普段の新一ならば反応すら返すのも億矩な駄洒落を連発していた。二人で交互に次いでいた酒は徐々に手酌となり、今一升瓶は床に3本ほど転がっている。
あまり酔いが顔に出ない二人だが、どうにも今日は飲み過ぎているようだ。しかしこんな日があっても悪くない。と、いうか、良い。くふくふと新一は意味もなく笑う。
そんな新一の笑顔を見て、平次はいっそうその表情をとろりと溶かした。その顔は新一のことが好きだという気持ちがだだ漏れで、見ていた自分も嬉しくてくすぐったいような気持ちになる。
かわいいなあ。こういうとこ本当俺にはなくて。やたらとかわいいって思うよなあ。
頬杖をつきながら新一は、ガラスコップで日本酒をまたごくりと飲み込む。
こんな表情を見せられて、しかもアルコールで理性がぐらぐらぐらついているこの状況。もしかしたら飲み過ぎて彼のは役に立たないかもしれないが。
(襲って、乗っかっちまおうかなあー・・・・・。)
そんな新一の親父臭い思惑も知らぬまま、平次はパタパタと掌で顔を扇いでいた。
「あー、もう暑いなあ。」
ふいに一言ごちて、平次はおもむろにTシャツを脱いだ。
体のラインをきれいに覆っていた布一枚が取り払われて、惜しげもなくその鍛えられた上半身が露わになる。
(うわ、やべえ。)
ごくりと唾を飲んだ新一が平次の動向に思わず見入る。じっと見られたことに気づいた平次がふうっと笑顔を浮かべると、新一に向かってなついた猫のような声で新一を呼んだ。
「くどー、くどー。」
「んだよ。」
夜もずいぶんふけてきたことだし、そろそろ・・・などと新一が不穏なことを考えているとも知らぬまま、平次は新一の前で指を揃えた両手の平で己の胸を覆った。
「手ブラ。」
手でブラジャー、略して手ブラ。
いやん、とくねりと腰を揺らせてアダルトな女優さんの真似。平次はそのギャグに自分で受けて、床にしゃがみ込み腹を抱えて大笑いしている。
しかし、意外にキた。少しそらせた背中と、胸の柔らかな筋肉の隆起。褐色の肌がいつもより赤みを帯びてふわりと上目遣いに笑うのもやーらしい。掌で隠された乳首の黒さだって、この間舐めて嫌がられた表情とかを思いだしてしまい、ずくりと体が疼いた。ましてこちらは珍しく酔いに下心が搭載されている。
「まあ、煽ったのはお前だよな。」
「んあ?」
こんだけ酔ってるし、色々試してみてもいいかもしんねえ。
新一は平次ににっこり笑いかけると、ぼんやりとこちら見る平次の耳を掴んで己のもとへと引き寄せる。唇を噛みつく勢いで塞いで、舌を絡ませた。新一の背中に平次の腕がそっと伸びる。ぎゅうぎゅうと肌の境界すら曖昧になるようなきつさで抱き締めあって――――――。
ひとしきり熱い息を交わした頃、形勢が逆転されていたことだけは不本意だった。
これが工藤の日ssっていったら、・・・怒られるかなあ(汗)しばらくこんなシモネタが続くかもしれない。
bitter 続きです。
前回まではこちら。
bitter bitter2 bitter3 bitter4 bitter5 bitter6 bitter7 bitter8
「お前が幸せになるなら、まだあきらめることができたかもしれん。
なのに、なんや?なんでこないな場所で女連れ込むような状況になってるんや。」
新一を抱き寄せながら、平次は必死に声を抑えている。
耳を塞ぎたい衝動は、平次のその腕に阻まれてかなわない。
けれどそれは、その誹謗に傷ついたからではない。新一はひどい怒りに駆られている。
あきらめる、なんて。
どうして自分が、今こんな状況に陥っているのか。
その元凶たる人物から非難されれば、それがヤツあたりと自覚していても怒りがわく。
・・・自分が蘭の傍に戻れば、彼も以前と同じ位置に戻るだろうなんて、浅はかな考えにも。
けれど現実、自分は蘭の傍を離れ、平次もまた。
そうだ、平次も自分と同じように、女を連れてはいなかったか。
エレベーターから足を踏み出した最大の理由を、今更ながらに知る。
自覚しないまま、突き上げる衝動のままに踏み出した足。
「女のことで文句言われる筋合いはねえ。てめえだって、…そうだ、てめえだって。」
女と一緒に、このホテルに。
口にしてしまうには、あまりに苦しい事実に新一は口篭る。
しかし、それは彼の不審を招くだけだろう。
強く力を込めて平次の腕を振り払う。今度は彼もその抵抗を受け入れて、囲んだ腕をほどいた。
なるべくこの出来事が軽く見えるように、新一は鼻先でふんと笑うと長い前髪で表情を再び隠して言葉を突きつける。
「お前だって、女と一緒だったじゃねえか。それで、明日は結婚式。めでてえじゃねえか。」
「は?」
口をぽかんと開けた平次が新一を凝視するが、その間の抜けた表情が新一の怒りに拍車にかけた。
喪失の不安から無意識に選んだ、――否、縋った答え。
どうしてあの時、蘭の存在へと縋ったのか。けれどもう、その答えへ向き合うことはない。
立ち上がろうと膝をついて腕ごと半身を持ち上げようとすれば、平次がその手首を掴んで新一を見上げた。
「工藤、ちょお待て。」
「関係ねえ。お前は結婚するんだし、俺はもう」
そうだ、自由になる。
吐き気のするような、禍々しい思いに飲み込まれるようなこともそのうちなくなるだろう。
人の想いは、時間が風化させてくれるものだから。大丈夫、きっと。
捕まれた腕を振り払おうとするが、今度はそれを許さない平次が跡が残るようなきつさで再び力を込める。
いっそ蹴り上げてこの場から消えようかと やや腰を下げて身構えたが、続けられた平次の言葉にその力は抜けた。
「だーかーら、なんで俺が結婚なんかするんや!」
怒りよりも狼狽えるといった表情の平次に、新一は毒気が抜かれてしまう。
「明日は式だって言ったじゃねえか」
そのまま質問を返せば ぽかんと惚けた顔になり、そしていきなり怒鳴りこまれた。
「俺はお前が好きやて言うとるやろ!」
「じゃあなんで女なんかといるんだよ!」
「アホぅ、あの人は俺の従姉妹やっ!」
がなるように言い立てられ、平次は思わず怒鳴り返した。
その言葉に今度は新一が目を丸くする。
新一の表情に少し頭の冷えた平次は、ぽつぽつと状況をあらためて説明する。
「親父は仕事、おかんは葬式、残った俺が出席するだけやないか。」
服部の親族ともなれば、それなりに名士が揃うのは当たりまえなのだろう。
両親の代理である平次がそれらに対応すべく、前日から顔を合わせるメンバーに合わせてスーツで上京するのも頷けた。
もともとパーティなどの代理出席は学生の頃から任されるほどだったのだから、対応が慣れていて当然だ。
理路整然と説明されて、まったく違う印象へと変貌したエレベーターの出来事を思い出し、
新一はくたりと膝が抜けてしゃがみこむ。
「なんだ、そうか。…はは。」
馬鹿みてえ。
顔を両の掌で覆い、背を揺らして自嘲する。
「勘弁してくれ…。」
見下ろす平次がどこか困ったような口調で呟いて、新一と同じようにしゃがみこんだ。
すぐ隣で頭を抱える平次を見ると、視線に気付いた彼が横目で新一を見返す。
「ほんまに変や、お前自分が何言うてるかわかっとるんか?」
何故だと自問自答しつつも数年ぶりに筆をとる。
